2024年4月1日。乗合、貸切、運行受託事業を営んでいた東急トランセが、親会社の東急バスに吸収合併されます。
東急トランセの設立は1998年。マイクロバス「ローザ」による代官山循環線を運行したのが始まりでした。翌1999年には東急バスからの運行受託を開始。中目黒駅~野沢龍雲寺間の野沢線「中目01系統」が選ばれました。車両は東急バスの車両を使用しましたが、前面と側面には楕円形の東急トランセステッカーを貼付し、一目で東急トランセ委託車だと判断が出来ました。その後も、路線移管を交えながら、営業所単位で運行受託路線が増加していきます。下馬営業所に始まり、弦巻、瀬田、淡島、高津と、楕円形のステッカーを貼った車両が勢力を拡大しました。この頃の直営乗合路線は、相変わらず代官山循環線のみであったことから、東急トランセの本質は、顧客満足度の向上でありつつも、さながら東急バスの路線を受託することを目的とするコスト的な一面もあったとも言えそうです。
当時、私は東急バスの走る街に住んでいました。
地元の路線が東急トランセ委託路線になり、初めて乗車した際は、衝撃を受けました。青色の運賃箱に運賃を入れると、運転手さんから笑顔で「ありがとうございます」と返ってきたからです。そしてマイクを活用した案内も行われていました。当時、東急バスの運転手さんは、昔ながらの職人気質の方が多く、基本的に愛想は期待出来ず、失礼ながらおっかないイメージでした。乗客が「このバスは〇〇へ行きますか?」と質問すると、「行きません」の一言で終わることもありましたし、服務面も、長髪だったり、怒ったような態度で接客したりする方もいました。(※もちろん、やさしい接客の方もいました)電鉄時代の話ですが、私はバスに乗るのに財布の中を覗くと小銭が乏しく、なんとか2枚の5円玉を駆使して運賃代を作りました。しかし、5円玉が運賃箱に対応しているのかわからず不安になり、運転手さんに尋ねると、案の定返答はなく「(この態度は入れても大丈夫そうだな)」と判断して、ドキドキしながら運賃箱に投入したのをおぼえています。もっとも、東急バスに限らず、バスという乗り物はこのような接客が至極当たり前に通用した時代だったと記憶しています。まだ昭和の風情が残る平成一桁の頃でしたから。このように、私の中でバスの運転手さんは職人気質という前提があったので、トランセ委託のバスに乗り、突然、相手に届く「ありがとうございます」が返って来たのは、衝撃的でした。あの楕円形のステッカーが貼ってあるバスは、これまでとは違うと驚いたものです。
東急トランセの設立は、規制緩和を見据えたものでした。
東急バスは、1991年に東京急行電鉄から分社化して誕生しました。これにより、財政面の黒字化は実現出来ましたが、利用者へのサービスや接客等は、以前と大きく変わることはありませんでした。そこで、来るべき規制緩和の競争を勝ち抜くべく、迅速な意思決定と柔軟性を持った子会社「東急トランセ」を設立します。そして、サービスのあり方や新たな可能性を模索しました。その解答が代官山循環線です。当時は、まだ珍しかった女性運転手さんを積極的に採用し、新たな車両デザイン、非接触式ICカード、デマンドルート、簡易接近表示システム、車椅子対応車などの導入をしました。更には運転手さんの挨拶や案内、服装、運転姿勢などの見直しも行いました。運転手の名称を「サービス・プロバイダー」としたのも、この時です。サービスの提供者という意味だそうです。バスにおいて、利用者が受ける様々なサービスは、安全性や快適性、定時性など、多岐にわたりますが、その中でも人的な割合は大きく、当時はそれが利用者離れの一因でもありました。もはや時代は、運転手さんの接客にも、一定以上の水準を求めていました。
その後、代官山循環線で培ったノウハウを運行受託に活かします。
サービス水準の向上したバスは、東急バス受託路線に広がりました。そして、今や、東急バス本体もサービス水準は向上し、東急トランセも東急バスも、同等のサービスを提供していると感じています。もちろん、運転手さんも同じ人間ですから、時には満足ある接客ができないことも当然あるでしょう。しかし、それでも全体でみると、概ね、過剰ではなく不足でもない水準のサービスが、今は提供されています。
消滅する東急トランセが最後の日を迎え、東急トランセが、時代に即したサービス向上に貢献した功績は大きかったと感じます。
今日まで27年間お疲れ様でした。
※参考:東急バス10年の歩み