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池島 神社下

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長崎県長崎市、池島線の終点、神社下です。



発着するのは長崎市のコミュニティバスで、さいかい交通が受託運行しています。



かつて、池島の交通は大型バスを運行する程の需要がありました。しかし、鉱山の閉山と共に人口は減り、今ではコミュニティバスに代わっています。



1959年に炭鉱が営業出炭を開始すると、島は大きく発展をします。島の最大時(昭和45年の記録)の人口は7776人。増え続ける人口に対応するために当時は住宅の整備が大きな課題でした。今でも当時の集合住宅が多く残されています。画像は神社下停留所の付近にある8階建ての住居。エレベーターは無かったそうです。そこで建物を1~4階と5~8階の二つに分けました。



左側が1~4階の建物の入口。右側の坂を上ると5~8階の建物の入口。エレベーターを設置する基準を回避するための構造だそうです。(4階から5階に遊びに行くには一旦、1階まで降りて建物を出る必要があり大変だったとか)



5~8階の建物の入口。今では無人の集合住宅です。



その8階建て住居をバックに、コミュニティバスが発車しました。余談ですが、運転手さんに神社下で乗降する乗客はいるのかと質問したところ、観光客がたまに乗降する程度との事です。



島を歩いてみました。



数世帯をのぞいて、全て無人の集合住宅。(ツアー参加時に撮影)



公園・・・



池島小中学校のグランド。2015年6月現在、中学校は生徒0人で休校中のため、小学校のみで児童さんの数も極めて少ない現状があります。



学校の前には島で唯一の交通信号機があります。押しボタン式で、思わず意味もなくボタンを押してしまいました。



・・・最後に、日本の炭鉱は、国の政策と深い結びつきがありました。戦後の安定期に入り、石炭が生産過剰に陥った事から、需要側の長期引き取り数量を確保しながら炭鉱の近代化を進める「石炭政策」が1963年からとられる事になります。また、海外炭との競争から、老朽化した鉱山を閉山し、効率の良い新しい炭鉱への集約が行われる「スクラップ&ビルド政策」が行われました。池島炭鉱は早くから合理化・近代化されていたためにビルド側に分類され、増強される事になります。

1985年度には年産最高となる153万トンの出炭を記録。しかし、1987年にスタートした第8次石炭政策では「海外炭との競争条件改善は見込めず、国内炭の段階的縮小はやむなし」とされ、政策に沿って池島炭鉱は縮小への道をたどります。そしてポスト第8次石炭政策を最後に石炭政策は終了する事になりました。この間、三井三池鉱山(大牟田市・荒尾市・1997年閉山)などの炭鉱で閉山が続いた事で、残った坑内掘の炭鉱は、太平洋炭礦(釧路市)と、この池島炭鉱の2炭田のみとなります。

池島炭鉱では石炭政策が終了する事によって、閉山交付金や補助金、貸付金の制度などがなくなっても操業が続けられるよう、経費削減による経営改善を進めます。しかし、坑内火災や大量出水、断層の発見など悪条件が重なり、出炭量は低下。石炭政策の最終年度を迎えていたタイミングでもあり、経済的な採掘可能炭量の枯渇や収支状況の悪化などから、経営の限界と判断されました。

そして「国内で最後まで残る優良鉱」と言われた池島炭鉱は、2001年11月29日に閉山を迎える事になります。



閉山から15年近くが経過。最盛期に比べて人口は大きく減った池島ですが、鉱山施設や集合住宅など、歴史を今に語り継いでいます。そして、周囲わずか4kmの小さい島を17往復ものコミュニティバスが住民や観光客を乗せて毎日運行しています。



<撮影2015年6月>

※参考資料:三井松島産業HP 百年の礎石

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